保育室より

ことばの力は生きる力         鈴木 祐子

更新日:2019/07/03


                     ささの葉さらさら のきばにゆれる

 美しいことばですね。さ音の連なりが笹の葉ずれの音と共に、子どもの成長を願う親の気持ちと重なって、やさしく響いてきます。また、軒端(のきば)という和語が、どこの家にもあったなつかしい風景を思い浮かばせます。

 かわいらしい字で書かれた短冊、笹の葉にそれをつけている子どもの顔、昼の暑さがやわらいできて、夕方、涼風がたって葉がゆれ、天の川がしだいに輝きを増してくる・・・かつての夏の夕方の情景が、この短いことばから美しくやさしく浮かび上がってきます。

 このようなことばを幼い時にこそ、たくさん聞かせてやりたいものです。人間の脳がこんなに大きくなったのは、ことばを獲得したからだと、以前ある本で読んだことがあります。たくさんのことばを持っているということは、たくさんの思考回路や感性を持っているということになります。これは、生きていく上で、お金やものをたくさん持っていることより、高い地位にいることにより、何よりも大きな力になります。

 そのためには、どのようなことばをたくさん持っているかということも大切な問題になります。たとえば、子どもがことばを獲得していく過程を思い出してみましょう。あーあーという音からマンマー、ワンワンなどということばになり、やがてことばをつなげて「ママ来た」というような表現になってきます。そして徐々に微妙な気持ちの動きを表現したり、意見を明確に表そうとするようになるのです。

 ところが、現在では、大人が擬態語や擬声語を乱発し、「ヤバい」等という一語を多発して気持ちを乱暴に表そうとしています。ことばが粗末なので、音量や文字の形状で変化をつけようとしたりしています。これは、大人の幼児化現象が起きてきたと言ってもよいでしょう。

 語彙の貧困さや、時間をかけて言葉による表現を探していく習慣が失われてくると、それに代わるように「映(ば)える」という言葉が出てきました。今は、自分の気持ちを映像にして簡単に気持ちを表そうとするインスタグラムが大流行です。もちろん「インスタグラム」は商品名ですので造語です。Instant(すぐに・手軽な)Telegram(電報)を合わせたものなのだそうです。ここに大人が飛びついていくのは、「言葉の力」という意味において、生きる力の大切な部分が育っていないことの表れかもしれません。

 私は、新しい感覚や時代によって生まれてくる「コトバ」を否定しているのではありません。むしろ、それを楽しみたいと思っています。ただそのためには、土台となる言葉の力が育っている必要を感じているのです。

  日本には冒頭に紹介したような美しい子どもの歌がたくさんあります。私は、子どもたちにできるだけやさしい美しい表現で語りかけてやったり、お話を読んで聞かせたりしたいと思っています。そして、本来日本語が持っていたやさしさ、豊かさ・・・ニュアンスというものを自然に身につけ、

                    ささの葉さらさら のきばにゆれる


 ということばを繊細に感じとれる大人に成長してほしいと思っています。今年は私も短冊にことばを書くのが楽しみになってきました。

遠田の蛙             鈴木 祐子

更新日:2019/06/03


 私は、子どもの頃、西船橋の近くに住んでいました。もう50年以上も前ですので、まわりには田んぼがいっぱいあって、今とは全く風景の違うところでした。田んぼに石を投げたり、飛んでいく白鷺に見とれたり、めだかをすくったり・・・と子どもの頃の思い出が、数々の映像と共に蘇ってきます。
 中でも、夏の夜、田んぼの中でいっせいに鳴き出す蛙の声は、今でもはっきりと耳に聞こえるようです。暑いので、戸を開け放して寝ていると、しんとした闇の中にいっせいに響きわたる蛙の声が、私の心の中に沁みこんでくるようでした。嬉しいことがあった時は、楽しく聞きましたし、嫌なことがあって早く寝てしまいたい時には、うるさく感じもしました。
 大人になってから、私は、斎藤茂吉のこの短歌に出会いました。

 死に近き母に添ひ寝のしんしんと 遠田のかはづ天に聞こゆる

                        
歌集「赤光」より

 

 母の臨終に立ち会っているという作者の圧倒的な悲しみを象徴するかのように、天に突き抜けるごとく響いているその蛙の声は、私に深い感動をもたらしました。「しんしんと」ということばが、鳴き声と共に心に深く沁みとおってくるようでした。それは、日常的な風景が、人の心のあり様によって全く違う情景となって迫ってくることをはっきりと知った一瞬でもありました。

 

 夏になると、子どもたちは水あそびの前に「かえる体操」というリズム運動をします。

 ♬ かえるのかぞくが なかよくうたうよ

   なつのたんぼで ウ~!

   あかちゃんがえる キョロキョロクー

   かあさんがえる  クワクワキャ

   とうさんがえる  ゲロゲロガオー ♬


 とうさん、かあさん、かえるの赤ちゃんの明るく楽しい様子と、子どもたちのかわいらしい動きがぴったりです。
 日常の何気ない風景・・・家族が健康で一緒にいられるという、ごくあたり前のことが、いかにあたり前ではないかという、この幸福に私たちは改めて感謝しなければと思います。

子どもと本(6)手塩にかけて      鈴木祐子

更新日:2019/04/23


 朝焼けが美しくなってきました。「春はあけぼの」と著した少納言のことばを思い浮かべたら、いつの間にか暦の上では「立夏」を迎えていました。いつの時代にも四季の移ろいは変わらず、その美しさはさりげなく私たちの心に染み入ってくるようです。
 だんだん明るくなる景色の中で、笑顔いっぱいの中にも引き締まった表情を見せる子どもたちに、確かな成長を感じ、誇らしく思う毎日です。 
 三月にある雛の節句もそうですが、この五月に「端午の節句」があります。どちらも子どもの成長を歓び、幸福を願う大切な日ですね。子どもの頃、お人形遊びに明け暮れていた私でも、勢いよく空を泳ぐこいのぼりや、りりしい五月人形を見るのは気持ちのよいものでした。
 中でも、元気いっぱいの「金太郎」は、私の大好きなお話でした。母や兄が聞かせてくれたり、読んでくれたりしたお話の中で、腹がけをした金太郎の姿や、熊にまたがっているところなどが断片的に思い出されます。そして、今でも、鮮やかに蘇ってくる絵本の中の一場面があるのです。
 それは、金太郎がすもうをとっているところで、土俵のわきで、お母さんが座っておむすびをたくさんこしらえている絵です。さるやうさぎが大勢まわりに集まってきています。
 自分が好きだという気持ちに細かい理由をつける必要などないでしょうが、今思うと、そこには、子どもの成長に必要なものがすべて凝縮されていたような気がします。健康、友だち、自然、そして、お母さんの愛情が、そのおむすびを結ぶ手にあふれていたのです。 
 「手塩にかける」ということばは、まさにこのことなのだと思います。手に塩を少しのせ、真心をこめておむすびをしっかりとにぎる感覚で、子育てをしている限り、子どもたちの笑顔が失われることはないでしょう。子育てという人の営みは、四季の移ろいにもまして、長い間変わらずに続いてきているのだと改めて思います。

子どもたちの教育基盤            鈴木 祐子

更新日:2019/01/23


 平成31年が明けました。昨今は、あちこちで「平成最後の…」という言葉が聞こえてきますが、私も同じように感慨深く新年を迎えました。

 ベル・ナーサリーが開園したのは、平成11年。1999年でした。2000年のミレニアム、そして21世紀の始まりと共に、ナーサリーは「平成」の時代を歩んできました。

 20世紀は、著しく科学の発達した時代でした。100年前に人々が予想したテレビ電話や宇宙旅行、ロボットの活躍などは実際に現実のものとなり、さらに飛躍しようとしています。

 新世紀は科学文明にもまして、人間の個性、品性、心の豊かさが問われる時代となりました。そしてこの20年間、ベル・ナーサリーも幼児教育という側面からその意味を常に問い直すことになったのです。

 

 特に「教育」という視点から考える時、昨年、私共の実践について改めて自覚できた体験がありました。船橋市保育協議会の海外研修に10年ぶりに参加して、職員達と共にオーストラリアのシドニーに赴いた時のことです。

 ダーリングハーバーにあるシーライフ・シドニー水族館には、たくさんの幼児や小学生が訪れていました。近隣の市町村から集まってきたのでしょう。年齢も人種も様々です。日本で、私たちが上野動物園に園児たちを引率していくのと同じような感じです。先生方は、観光客の迷惑にならないように通路の端によけたり、騒がしくしないように注意したりしています。どこの国でも指導する内容は同じだなと思いながら、楽しく眺めているうちに、ペンギンのコーナーの前で、あるグループと一緒になりました。

 きちんと並んでいた子どもたちが、ペンギンが動いたとたんにワーッと大歓声です。ペンギンが立ち止まると“Statue!”(彫像みたい!)…その生き生きとした表情と子どもらしい声、元気いっぱいの姿に、私は、社会全体で子どもを育てている国の底力のようなものを感じました。

 視察中に必ず目にしたアーリー・イヤーズ・ラーニング・フレームワーク(EYLF)は、ベル・ナーサリーが大切にしている教育の精神と大いに重なるものがありました。正式に日本語で訳されているものは見つからなかったので、個人的に翻訳してみたものを紹介します。

 

1  Children have a strong sense of identity.

2  Children are connected with and contribute to their world.

3  Children have a strong sense of wellbeing.

4  Children are confident & involved learners.

5  Children are effective communicators.

 

1 自分の存在及び他との関りを十分に理解できる子どもである。

2 自分を取り巻く環境を理解し、それを良くしようと考える子どもである。

3 自分の身体や精神の健全性をしっかりと意識できる子どもである。

4 自信を持って自ら学ぶことのできる子どもである。

5 自分の感情や考えを上手に伝えることができる子どもである。

 

 子どもたちが自分たちの存在をより確かなものとし、安心して自己を表現できるような環境を整えることは、幼児教育に携わる者にとって忘れてはならないことなのだと改めて実感する研修でした。

 

 新しい時代に向かって、ベル・ナーサリーは更に真摯に歩みを進めていきたいと願います。そして、今、ナーサリーにいる子どもたちが健全で思索に満ちた、より豊かな時代を創ってくれることを確信しているのです。

子どもと本(5)    子育てに思う「みにくいあひるの子」より⑤ 鈴木 祐子

更新日:2018/11/16


 あひるの子は、ひとりだったために、せまい視野しかもたない人々に「できそこないの子」「みにくい子」と言われなければなりませんでした。

 それにしても、子育てというのは、難しいものです。なかなか親の思うようにいかなくて、いらいらしてしまうこともあるでしょう。そんな皆様に私は、このお話の最後の場面をおくります。

 
 「あたらしい白鳥がいちばんきれいだね。」こどもたちが、あひるの子 ―― いいえ、わかい白鳥をゆびさしていいました。

 年上の白鳥たちも、そのとおりだと思いました。そして今、あたらしいなかまのまわりにあつまってきて、金色のくちばしで、わかい白鳥のはねをなでてくれました。

 わかい白鳥は、あんまりにうれしくて、あたまを、つばさのうしろにかくしました。しあわせすぎて、どうしていいか、わからなかったのですもの。

 
 思い出しましょう。すべては、わが子が、世の中に出て、幸せな一生を送ってほしいと思う親心からはじまっているのです。このわかい白鳥が、こんなにしあわせだと知ったら、白鳥のお母さんにとってこれほどの喜びはないでしょう。愛情のこもった目で認められ、励ましを受けた「あひるの子」は、自信を持ち、自分を大事にしてこれから生きていくことでしょう。私たちは、目の前にいる子どもたちのかけがえのない真実をいつも見つめながら、その幸せを願いたいものです。
                                 (了)

子どもと本(5)    子育てに思う「みにくいあひるの子より」④ 鈴木祐子

更新日:2018/10/27


 あひるの子のお話は、いうまでもなく、大きな成長のものがたりです。みんなにいじめられて、お家を逃げ出したあひるの子は、いろいろ誤解され、迫害されながら、長い冬を過ごします。どんなにつらかったか、それをお話するのは、アンデルセンも言っているように、あんまりあひるが、かわいそうです。だからお話しません。ただ、最後のこの素敵な場面だけ見てみましょう。

 「またいじめられるかしら。」かわいそうなあひるの子は、あたまを水の上にたらしました。と、そのとき。きれいな水の上に、あひるの子は、なにを見たでしょう。……白いはねと、白いながいくびをもった、うつくしい白鳥のすがたでした。

 人間の心は、経験を得ることによって成長していきます。わが子に、あひるの子のようにつらい冒険をさせたいと思う親はいないでしょう。でも、私たちは、知らず知らずのうちに子どもの真実を見つめることを忘れているかもしれません。因習的なせまい見方による思い違い、平たく言えば、世の常識にとらわれすぎて、自分の目でほんものを見つめることを忘れた人たちによって、あひるの子は「みにくい」ときめつけられ、誤解され続けます。

 いま流行している教育や「しつけ」の型、この子の音楽の才能を伸ばさなければとか、良い学校に入れるために、大いそぎで文字をおぼえさせ、できれば英語も習わせておかなければ……などということに気を使いすぎて、目の前にいる子どものほんとうの姿、かけがえのない真実を見失わないようにしましょう。
 最初に述べたように、あらゆるものから、やさしく、毅然と守ってくれるのは、お母さんだけなのです。
                                                                        (次回へつづく)

子どもと本(5)      子育てに思う「みにくいあひるの子」より③ 鈴木祐子

更新日:2018/09/26


次の日、おかあさんあひるは、子どもたちを連れておやしきの奥様にごあいさつに行きました。あひるのおくさまは、おかあさんに「末っ子はできそこないだね。」と言います。でも、おかあさんは答えます。


 「この子はきりょうよしでは、ございません。なにしろ、あんまりながく、たまごの中におりましたので、きっとそだちすぎたのでしょう。でも、たいへん、およぎはじょうずですし、きだてもやさしい子でございます。」


 お母さんにとって、きりょうのことなんかちっとも気になりません。何よりもまず、上手に泳ぐ姿に感心するのです。子どもの良いところを見てあげられるお母さん、心からほめてあげられるお母さんになりたいですね。
 人間として大切なところをいつも見ていてくれる、いつもやさしくしてくれる・・・子どもがそれを感じていられる限り、親子の絆はかたく、決して親の愛情を裏切るような方向に進むことはないでしょう。また、その愛情に満ちた目で見守ってあげられるのも、お母さんしかいないのです。  (次回に続く)

子どもと本(5)       子育てに思う「みにくいあひるの子」より② 鈴木祐子

更新日:2018/08/24


 さて、やっとのことで、たまごが一つ、また一つ、われました。次々とひよこが生まれ出ます。ところが、一つ残った大きなたまごがなかなかひよこになりません。おばあさんは、七面鳥のたまごかもしれないから、うっちゃらかして生まれた子に手をかけるよう言いますが、もちろん、お母さんには、そんなことはできません。だからこそ母親なのですね。心配しながらじいっとすわっているのです。

 とうとうたまごがわれました。ところが、末の子は、他の子と違って、大きくって、灰色で、よたよたしています。お母さんは、びっくりしてしまいました。   でも、お母さんは、生まれたひよこを全部つれて、小川へ出かけました。あひるの子たちの泳ぎの勉強です。

 お母さんは、泳ぎの勉強のしかたなど、あれこれうるさく言いません。はじめに自分が飛びこみます。そして水の中からやさしく呼ぶのです。ひよこたちは、続いて飛びこみます。もし、こわがって水に飛びこまない子がいても親鳥は、ひよこを後ろから押したり、水の中からひっぱったりは、決してしないでしょう。ひよこが、自分の力で泳ぎ始めるのを遠くで見守っているのです。

 昔の学校の校長室などには、よく「啐啄」ということばが額で飾られていたそうです。これは、禅宗の教えですが、鳥が卵からかえるとき、卵の中でピイピイ鳴き始める。その声と母親が外から殻をつっつくのと、うまく呼吸があって、初めて新しい生命の誕生を迎えるのだという意味です。

 機を得て、両者が相応ずること。つまり、子どもの内側からの成長の意気ごみと外側からの親の適切な導きとの、ほどよい呼吸の一致の大切さを教えることばなのです。生まれてまもないあひるたちも、その成長のうぶ声を、おかあさんあひるにやさしく聞いてもらって、もう、気持ちよさそうに泳ぎ始めたのですね。               
                             (次回につづく)

子どもと本(5)       子育てに思う「みにくいあひるの子」より① 鈴木祐子

更新日:2018/07/30


 なつは、いまが、さかりでした。

 はたけには、からすむぎが青あおとのび、小むぎは、きいろにみのっていました。のはらではほしくさがすっかりかわいて、いいにおいがあたりにいっぱいです。

 のはらのむこうに、小川がありました。川ぎしまで、大きなごぼうの葉が、いちめんにはえしげっています。まあ、そのはっぱの大きいこと。小さい子どもなら、たってあるいても、見つからないほどでした。


 皆さん、こんなところで、ご自分のお子様を育てたい、あるいは、遊ばせたいと思いませんか。夏の明るい強い日射しのもとで、麦わら帽子をかぶった子どもが、かけずりまわって、小川に足をひたしてみたり、葉っぱのかげから可愛らしい顔を出したりする姿を想像するだけで、わくわくしてしまいますね。

 実は、このごぼうの葉の下で、一わのあひるのおかあさんが、じいっと巣の中にすわりつづけていました。そうです。これは、アンデルセンの「みにくいあひるの子」のお話のはじまりだったのです。

 つい最近、私は、五才の子どもにこの話を読み聞かせてやる機会がありました。子どもは、絵本のあひるや、白鳥や、猫やにわとりを指さしながら、お話を聞いて、大喜びでしたが、私はそこからあふれてくる、あまりにも大切なことに圧倒されて、何度も何度も読み返してしまいました。そこで、今回は、皆さんとご一緒にもう一度「みにくいあひるの子」を読んでみようと思います。

 ……さっきから、あひるのおかあさんは、たまごをかえそうとしています。ところが、たまごは、なかなか、かえりません。

  「でも、しんぼうして、ひよこにかえさなくちゃー。」

 お母さんとしての生活は、まず、辛抱することから始まるのです。ここであせったり、待つことにあきて、外側からがんがんたたいてはいけません。命はとても繊細なものです。そうっと大切に、じっと待つのです。人間のお母さんも同じでしょう。すべての生きものは、母親になる時、この神聖な時間を耐え、そして至福の喜びを味わうのです。この辛抱は、そうした幸福に裏打ちされた忍耐であり、これから始まる子育ての基盤となるものではないでしょうか。
                             (次回につづく)

子どもと本(4)アンがグリーンゲイブルズに来た日 鈴木 祐子

更新日:2018/07/03


 前回は、冒険心にあふれた少年たちの物語を紹介しましたね。さて、同じ年ごろの少女たちは、どんな物語に引きつけられるのでしょう。私などは「小公女」「ハイジ」「若草物語」と昔ながらのお話が浮かんできます。お母さまたちにもきっとそれぞれに思い出がおありのことと思います。それらは、女の子たちの永遠に続く清らかな夢と憧れが、魅力的な主人公の生き方と共に息づいている作品ですものね。

 その中でもその作品の呪縛力があまりにも強く、これについてはとても語り尽くせそうにないのが「不思議の国のアリス」と言えましょう。ところが、※1908年に、マーク・トウェインが「あの不滅の生命を持つ『不思議の国のアリス』以来の愉快きわまる、そして最も強く人の心に迫ってくる存在」と評した作品が出版されたのです。※

 ルーシイ・モンゴメリの「赤毛のアン」です。私自身は、小学校6年生の時に父が買ってくれたのが、最初の出会いでした。それから50年間、文字通りにんじんのように赤い髪をした、そばかすだらけの「アン」の一挙一動に泣いたり笑ったりしながら、何度も何度も読みました。アヴォンリーの村も、その村の人々も、すっかり慣れ親しんだ友達のような気さえします。

 4年前に放送されたNHK朝の連続ドラマ「花子とアン」は、この本を翻訳した村岡花子さんが主人公になっていました。私が読んだ物語は殆ど「村岡花子訳」なので、大変懐かしかったです。

 つい最近、私はまたこの本を開きました……年を取ったマシューとマリラの兄妹は、畑仕事の手伝いに、孤児院から男の子をひとりもらおうと思いつきます。けれども、やってきたのは、大きな目を輝かせたやせっぽちの女の子です。二人は困り果てました。女の子では、自分たちの役に立ちそうもないのです。ところが、突然マシューが、思いもかけないことを言い出します。

      「だが、わしらの方であの子に何か役に立つかもしれんよ。」

このさりげない、しかも深い愛に満ちたことばに、私は思わず涙が出てきました。

 そして、グリーンゲイブルスの子どもになることが決まった夜、初めて神様にお祈りをしたアンを見て、育てていくことを覚悟したマリラは、マシューに言うのです。

     「まあまあ、世の中を渡って行くには、それぞれ苦労を分け合わ
      なくちゃならないけど、これまで気楽にやってきた私にも
      どうやら番が回ってきたようですよ。」

マシューが答えます。


      「そうさな、お前の出番のようだな。」

 大学を出てから還暦を過ぎるまで、多くの子どもたちと関わってきた私の心に、改めて深く染み入る場面でした。すぐれた作品は、子どもの手から離れて、あらゆる年齢の人々のものになるのですね。


  ※は、 村岡花子「赤毛のアン」あとがき 1954年 新潮文庫 より
  引用しました。 

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