たえだえかかる 雪の玉水 鈴木祐子
更新日:2020/02/04
行きつもどりつしながら、春が少しずつ近づいてきています。季節の移り目はいつも、去りゆく時を惜しむ淋しさと、新しい季節を迎える喜びとが混ざり合って複雑な気持ちです。
寒のもどりがあって、身を縮こませながら歩いていても、空を見あげるとどこかにゆるやかなやさしい光が見えてきています。
まだ芽を出していない冬枯れの木々の枝も、ほんのりとした微かな赤味を帯び、来たるべき時に備えてじっと力を蓄えているようです。
いつの間にか季節は移ろうとしています。
山深み 春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水
式子内親王
山が深いので、春が来たともはっきりわからない山家の戸に
雪どけの水がぽたりぽたりと間遠に落ちかかることよ
新古今和歌集の中で、私が最も好きなうたです。わずかに春の訪れを知らせる「雪の玉水」という表現の美しさ、ほのかなその兆しを喜ぶ心の中が、静かにそして確実に私の心を動かします。
現代は「わずか」とか「ほのか」とか繊細で優美なものは慌しく押し流され、賑やかに「オモシロカった」「モリアガった」ことが、充実した良い時間を過ごしたことのように思われがちです。
でも、本当に大切なものはそう簡単に姿を現したり、手に入ったりはしないのです。常に時と共にある「命」もそうでしょう。
子どもを育てていて、ふと気がつくと、こんなにも大きくなっていたのか、こんなことを考えていたのかと驚くことがあります。昨今の悲しいニュースを聞くにつれ、命が非常に軽く扱われていることに対して何もできない自分にもどかしさや焦りを感じます。このような時代にこそ静かな命への問いかけ、命へのやさしい眼差しは、子育てをする私たちに大切なことを教えてくれるような気がします。
ベル・ナーサリーも2月に入り、卒園や進級に向けて一段とたくましくなった子どもたちが、園内に明るい春を呼びこんでくれているようです。
賢者の贈り物 鈴木 祐子
更新日:2019/12/23
昔々、今から2000年も前のこと、新しい星がひとつ現れました。不思議に光る星でした。
その星をめあてに東の国からはるばると3人の博士が旅を続けていました。この世に救い主が現れる時は、不思議な星が輝く、昔の本にそう書いてあったのです。
大きな星は、ベツレヘムの町はずれの馬小屋の上で止まりました。馬小屋の中にはマリアが休み、側のかいば桶の中には、赤ちゃんがすやすや眠っていました。3人の博士は、救い主のお生まれになったお祝いに、たからものを差し上げました。
国中で一番だいじな宝石を
国中で一番とうとい乳香を(においのよいこうりょう)
国中で一番じょうとうな没薬を(たいせつなくすり)
この言い伝えから、クリスマスには、プレゼントを贈る習慣が始まったと言われています。
この時季には、キリスト者である人もない人も、プレゼントを楽しみにする大人や子どもが増えます。
「クリスマスには、○○を買ってね。」という声が私の周辺でもよく聞かれます。大人も、「プレゼントは何がいい?」と尋ねたりして、街の中でもそれを見越した商戦が繰り広げられています。
プレゼントは、日本語で言えば贈り物です。「贈る」は、本来「送る」と同じ言葉です。人に別れ難くてついて行った「送る」が、心をこめて人にものを届けるという「贈る」になってきたのです。この「心をこめて」が贈り物にはとても大切なことです。
親としては、子どもに何か買ってやりたいし、喜ぶ顔が見たいので、すぐ品物に目がいってしまいます。受け取った子どもも、欲しかった物なので、その時は嬉しいし、喜ぶでしょう。でも私は、贈り物に込められた「心」は別の姿で現れてもいいかなと思う時があります。
オー・ヘンリーの小説に「賢者の贈り物」という有名な短編があります。貧しいけれど愛し合っている若い夫婦が、それぞれに一番大切なものを売って、相手のためにプレゼントを買います。夫は、自分の大切な時計を売って、妻のために美しいべっ甲の飾り櫛を。妻は、自分の輝く長い髪を売って、夫のためにプラチナの時計鎖を……。わが家の最も大切な宝を最も賢くない方法で、互いに犠牲にした若い二人こそ、私には最も賢い人々に思えます。
ものは、いつかこわれたり、なくなったり、飽きたりしていきます。でも、それを贈った人の心が、あたたかく伝わるような、その時を思い出すと嬉しくなるような、そんなプレゼントを贈りたいし、贈られたいなと思います。
ギリシャの名医 ・・・へびつかい座・・・ 鈴木祐子
更新日:2019/08/07
子どもの頃、夕方になると涼み台に出て空を眺めるのが好きでした。昼間の暑さがやわらぎ、夜気がしのびよってくる空の色の変化を見ていると、様々な星たちが現れてきて、いろいろなお話を語ってくれました。
七夕で知られる織ひめとひこ星はもちろんのこと、大ぐま座、こぐま座、カシオペア座など、見つけながらわくわくしていたものです。
夏の星座としては、へびつかい座が印象的でした。屋敷うちに棲んでいる青大将と昼間出くわしたりした後は、特に気になって眺めたものです。
へびつかい座は、ギリシャ神話に出てくる名医アスクレピオスが天にのぼって星になったと言われています。…ギリシャ一の名医アスクレピオスは、知恵の女神アテナからメドゥサの血をもらいます。メドゥサというのは、髪の毛がへびで、その姿があまりにも恐ろしいので、一目でも彼女を見た者は、石になってしまうのです。勇士ペルセウスに退治されたメドゥサの血を、女神はアスクレピオスに渡してくれました。
「この血を病気やけがを治すのに役立てれば、 すばらしいことが
起こるでしょう。」
確かにその血の威力は大変なものでした。彼はその血を用いて死んだ人を生き返らせることさえできるようになったのです。けれども、人間が死ななくなれば、神をうやまう気持ちがなくなってしまうと案じたゼウスによって、アスクレピオスは命を落とします。…
すばらしい薬も、使い方を誤ればこんな悲劇が起こってしまうのですね。
使い方と言えば、最近は、公園などにある遊具が以前とはすっかり様変わりしました。私の子ども時代を含め、何十年もの間子どもたちを楽しませてくれた箱ブランコ、かいせんとう、シーソーなどが日本中から姿を消そうとしています。理由はいくつかありますが、これらの遊具による事故が各地で起きたことが、撤去される原因となりました。
けれども、これで危険防止になるでしょうか。遊具の使い方を学ばずに大きくなってしまった子どもたち。一緒に楽しく遊んであげなかった大人たちにこそ、問題はあるのでしょう。私自身も、子どもたちの「外遊びの安全」について、判断を迷う事が多くなってきています。
夜空に星が見えにくくなっていくだけでなく、昼間の遊びについても窮屈になっていく子どもたちの世界に心を痛めているのは私だけではないでしょう。医学のシンボルである大きなへびを手にして、アスクレピオスが何か言いたげです。
ことばの力は生きる力 鈴木 祐子
更新日:2019/07/03
ささの葉さらさら のきばにゆれる
美しいことばですね。さ音の連なりが笹の葉ずれの音と共に、子どもの成長を願う親の気持ちと重なって、やさしく響いてきます。また、軒端(のきば)という和語が、どこの家にもあったなつかしい風景を思い浮かばせます。
かわいらしい字で書かれた短冊、笹の葉にそれをつけている子どもの顔、昼の暑さがやわらいできて、夕方、涼風がたって葉がゆれ、天の川がしだいに輝きを増してくる・・・かつての夏の夕方の情景が、この短いことばから美しくやさしく浮かび上がってきます。
このようなことばを幼い時にこそ、たくさん聞かせてやりたいものです。人間の脳がこんなに大きくなったのは、ことばを獲得したからだと、以前ある本で読んだことがあります。たくさんのことばを持っているということは、たくさんの思考回路や感性を持っているということになります。これは、生きていく上で、お金やものをたくさん持っていることより、高い地位にいることにより、何よりも大きな力になります。
そのためには、どのようなことばをたくさん持っているかということも大切な問題になります。たとえば、子どもがことばを獲得していく過程を思い出してみましょう。あーあーという音からマンマー、ワンワンなどということばになり、やがてことばをつなげて「ママ来た」というような表現になってきます。そして徐々に微妙な気持ちの動きを表現したり、意見を明確に表そうとするようになるのです。
ところが、現在では、大人が擬態語や擬声語を乱発し、「ヤバい」等という一語を多発して気持ちを乱暴に表そうとしています。ことばが粗末なので、音量や文字の形状で変化をつけようとしたりしています。これは、大人の幼児化現象が起きてきたと言ってもよいでしょう。
語彙の貧困さや、時間をかけて言葉による表現を探していく習慣が失われてくると、それに代わるように「映(ば)える」という言葉が出てきました。今は、自分の気持ちを映像にして簡単に気持ちを表そうとするインスタグラムが大流行です。もちろん「インスタグラム」は商品名ですので造語です。Instant(すぐに・手軽な)Telegram(電報)を合わせたものなのだそうです。ここに大人が飛びついていくのは、「言葉の力」という意味において、生きる力の大切な部分が育っていないことの表れかもしれません。
私は、新しい感覚や時代によって生まれてくる「コトバ」を否定しているのではありません。むしろ、それを楽しみたいと思っています。ただそのためには、土台となる言葉の力が育っている必要を感じているのです。
日本には冒頭に紹介したような美しい子どもの歌がたくさんあります。私は、子どもたちにできるだけやさしい美しい表現で語りかけてやったり、お話を読んで聞かせたりしたいと思っています。そして、本来日本語が持っていたやさしさ、豊かさ・・・ニュアンスというものを自然に身につけ、
ささの葉さらさら のきばにゆれる
ということばを繊細に感じとれる大人に成長してほしいと思っています。今年は私も短冊にことばを書くのが楽しみになってきました。
遠田の蛙 鈴木 祐子
更新日:2019/06/03
私は、子どもの頃、西船橋の近くに住んでいました。もう50年以上も前ですので、まわりには田んぼがいっぱいあって、今とは全く風景の違うところでした。田んぼに石を投げたり、飛んでいく白鷺に見とれたり、めだかをすくったり・・・と子どもの頃の思い出が、数々の映像と共に蘇ってきます。
中でも、夏の夜、田んぼの中でいっせいに鳴き出す蛙の声は、今でもはっきりと耳に聞こえるようです。暑いので、戸を開け放して寝ていると、しんとした闇の中にいっせいに響きわたる蛙の声が、私の心の中に沁みこんでくるようでした。嬉しいことがあった時は、楽しく聞きましたし、嫌なことがあって早く寝てしまいたい時には、うるさく感じもしました。
大人になってから、私は、斎藤茂吉のこの短歌に出会いました。
死に近き母に添ひ寝のしんしんと 遠田のかはづ天に聞こゆる
歌集「赤光」より
母の臨終に立ち会っているという作者の圧倒的な悲しみを象徴するかのように、天に突き抜けるごとく響いているその蛙の声は、私に深い感動をもたらしました。「しんしんと」ということばが、鳴き声と共に心に深く沁みとおってくるようでした。それは、日常的な風景が、人の心のあり様によって全く違う情景となって迫ってくることをはっきりと知った一瞬でもありました。
夏になると、子どもたちは水あそびの前に「かえる体操」というリズム運動をします。
♬ かえるのかぞくが なかよくうたうよ
なつのたんぼで ウ~!
あかちゃんがえる キョロキョロクー
かあさんがえる クワクワキャ
とうさんがえる ゲロゲロガオー ♬
とうさん、かあさん、かえるの赤ちゃんの明るく楽しい様子と、子どもたちのかわいらしい動きがぴったりです。
日常の何気ない風景・・・家族が健康で一緒にいられるという、ごくあたり前のことが、いかにあたり前ではないかという、この幸福に私たちは改めて感謝しなければと思います。
子どもと本(6)手塩にかけて 鈴木祐子
更新日:2019/04/23
朝焼けが美しくなってきました。「春はあけぼの」と著した少納言のことばを思い浮かべたら、いつの間にか暦の上では「立夏」を迎えていました。いつの時代にも四季の移ろいは変わらず、その美しさはさりげなく私たちの心に染み入ってくるようです。
だんだん明るくなる景色の中で、笑顔いっぱいの中にも引き締まった表情を見せる子どもたちに、確かな成長を感じ、誇らしく思う毎日です。
三月にある雛の節句もそうですが、この五月に「端午の節句」があります。どちらも子どもの成長を歓び、幸福を願う大切な日ですね。子どもの頃、お人形遊びに明け暮れていた私でも、勢いよく空を泳ぐこいのぼりや、りりしい五月人形を見るのは気持ちのよいものでした。
中でも、元気いっぱいの「金太郎」は、私の大好きなお話でした。母や兄が聞かせてくれたり、読んでくれたりしたお話の中で、腹がけをした金太郎の姿や、熊にまたがっているところなどが断片的に思い出されます。そして、今でも、鮮やかに蘇ってくる絵本の中の一場面があるのです。
それは、金太郎がすもうをとっているところで、土俵のわきで、お母さんが座っておむすびをたくさんこしらえている絵です。さるやうさぎが大勢まわりに集まってきています。
自分が好きだという気持ちに細かい理由をつける必要などないでしょうが、今思うと、そこには、子どもの成長に必要なものがすべて凝縮されていたような気がします。健康、友だち、自然、そして、お母さんの愛情が、そのおむすびを結ぶ手にあふれていたのです。
「手塩にかける」ということばは、まさにこのことなのだと思います。手に塩を少しのせ、真心をこめておむすびをしっかりとにぎる感覚で、子育てをしている限り、子どもたちの笑顔が失われることはないでしょう。子育てという人の営みは、四季の移ろいにもまして、長い間変わらずに続いてきているのだと改めて思います。
子どもたちの教育基盤 鈴木 祐子
更新日:2019/01/23
平成31年が明けました。昨今は、あちこちで「平成最後の…」という言葉が聞こえてきますが、私も同じように感慨深く新年を迎えました。
ベル・ナーサリーが開園したのは、平成11年。1999年でした。2000年のミレニアム、そして21世紀の始まりと共に、ナーサリーは「平成」の時代を歩んできました。
20世紀は、著しく科学の発達した時代でした。100年前に人々が予想したテレビ電話や宇宙旅行、ロボットの活躍などは実際に現実のものとなり、さらに飛躍しようとしています。
新世紀は科学文明にもまして、人間の個性、品性、心の豊かさが問われる時代となりました。そしてこの20年間、ベル・ナーサリーも幼児教育という側面からその意味を常に問い直すことになったのです。
特に「教育」という視点から考える時、昨年、私共の実践について改めて自覚できた体験がありました。船橋市保育協議会の海外研修に10年ぶりに参加して、職員達と共にオーストラリアのシドニーに赴いた時のことです。
ダーリングハーバーにあるシーライフ・シドニー水族館には、たくさんの幼児や小学生が訪れていました。近隣の市町村から集まってきたのでしょう。年齢も人種も様々です。日本で、私たちが上野動物園に園児たちを引率していくのと同じような感じです。先生方は、観光客の迷惑にならないように通路の端によけたり、騒がしくしないように注意したりしています。どこの国でも指導する内容は同じだなと思いながら、楽しく眺めているうちに、ペンギンのコーナーの前で、あるグループと一緒になりました。
きちんと並んでいた子どもたちが、ペンギンが動いたとたんにワーッと大歓声です。ペンギンが立ち止まると“Statue!”(彫像みたい!)…その生き生きとした表情と子どもらしい声、元気いっぱいの姿に、私は、社会全体で子どもを育てている国の底力のようなものを感じました。
視察中に必ず目にしたアーリー・イヤーズ・ラーニング・フレームワーク(EYLF)は、ベル・ナーサリーが大切にしている教育の精神と大いに重なるものがありました。正式に日本語で訳されているものは見つからなかったので、個人的に翻訳してみたものを紹介します。
1 Children have a strong sense of identity.
2 Children are connected with and contribute to their world.
3 Children have a strong sense of wellbeing.
4 Children are confident & involved learners.
5 Children are effective communicators.
1 自分の存在及び他との関りを十分に理解できる子どもである。
2 自分を取り巻く環境を理解し、それを良くしようと考える子どもである。
3 自分の身体や精神の健全性をしっかりと意識できる子どもである。
4 自信を持って自ら学ぶことのできる子どもである。
5 自分の感情や考えを上手に伝えることができる子どもである。
子どもたちが自分たちの存在をより確かなものとし、安心して自己を表現できるような環境を整えることは、幼児教育に携わる者にとって忘れてはならないことなのだと改めて実感する研修でした。
新しい時代に向かって、ベル・ナーサリーは更に真摯に歩みを進めていきたいと願います。そして、今、ナーサリーにいる子どもたちが健全で思索に満ちた、より豊かな時代を創ってくれることを確信しているのです。
子どもと本(5) 子育てに思う「みにくいあひるの子」より⑤ 鈴木 祐子
更新日:2018/11/16
あひるの子は、ひとりだったために、せまい視野しかもたない人々に「できそこないの子」「みにくい子」と言われなければなりませんでした。
それにしても、子育てというのは、難しいものです。なかなか親の思うようにいかなくて、いらいらしてしまうこともあるでしょう。そんな皆様に私は、このお話の最後の場面をおくります。
「あたらしい白鳥がいちばんきれいだね。」こどもたちが、あひるの子 ―― いいえ、わかい白鳥をゆびさしていいました。
年上の白鳥たちも、そのとおりだと思いました。そして今、あたらしいなかまのまわりにあつまってきて、金色のくちばしで、わかい白鳥のはねをなでてくれました。
わかい白鳥は、あんまりにうれしくて、あたまを、つばさのうしろにかくしました。しあわせすぎて、どうしていいか、わからなかったのですもの。
思い出しましょう。すべては、わが子が、世の中に出て、幸せな一生を送ってほしいと思う親心からはじまっているのです。このわかい白鳥が、こんなにしあわせだと知ったら、白鳥のお母さんにとってこれほどの喜びはないでしょう。愛情のこもった目で認められ、励ましを受けた「あひるの子」は、自信を持ち、自分を大事にしてこれから生きていくことでしょう。私たちは、目の前にいる子どもたちのかけがえのない真実をいつも見つめながら、その幸せを願いたいものです。
(了)
子どもと本(5) 子育てに思う「みにくいあひるの子より」④ 鈴木祐子
更新日:2018/10/27
「またいじめられるかしら。」かわいそうなあひるの子は、あたまを水の上にたらしました。と、そのとき。きれいな水の上に、あひるの子は、なにを見たでしょう。……白いはねと、白いながいくびをもった、うつくしい白鳥のすがたでした。
人間の心は、経験を得ることによって成長していきます。わが子に、あひるの子のようにつらい冒険をさせたいと思う親はいないでしょう。でも、私たちは、知らず知らずのうちに子どもの真実を見つめることを忘れているかもしれません。因習的なせまい見方による思い違い、平たく言えば、世の常識にとらわれすぎて、自分の目でほんものを見つめることを忘れた人たちによって、あひるの子は「みにくい」ときめつけられ、誤解され続けます。
いま流行している教育や「しつけ」の型、この子の音楽の才能を伸ばさなければとか、良い学校に入れるために、大いそぎで文字をおぼえさせ、できれば英語も習わせておかなければ……などということに気を使いすぎて、目の前にいる子どものほんとうの姿、かけがえのない真実を見失わないようにしましょう。
最初に述べたように、あらゆるものから、やさしく、毅然と守ってくれるのは、お母さんだけなのです。
(次回へつづく)
子どもと本(5) 子育てに思う「みにくいあひるの子」より③ 鈴木祐子
更新日:2018/09/26
「この子はきりょうよしでは、ございません。なにしろ、あんまりながく、たまごの中におりましたので、きっとそだちすぎたのでしょう。でも、たいへん、およぎはじょうずですし、きだてもやさしい子でございます。」
お母さんにとって、きりょうのことなんかちっとも気になりません。何よりもまず、上手に泳ぐ姿に感心するのです。子どもの良いところを見てあげられるお母さん、心からほめてあげられるお母さんになりたいですね。
人間として大切なところをいつも見ていてくれる、いつもやさしくしてくれる・・・子どもがそれを感じていられる限り、親子の絆はかたく、決して親の愛情を裏切るような方向に進むことはないでしょう。また、その愛情に満ちた目で見守ってあげられるのも、お母さんしかいないのです。 (次回に続く)